3人のメンター
今の仕事に大きな影響を与えてくださった3人のメンターがいます。
一人が和歌山大学の江田裕介さん、二人目が東京大学の中邑賢龍さん、そして三人目が2年前に亡くなられた畠山卓朗さんです。
昨日、特総研の杉浦さんがブログで畠山さんの事について書かれていました。
井上智さんの新刊の書評だったのですが、その中で畠山さんが講義などで必ずお話をされる
「観察者」の視点
「対話者」の視点
「共感者」の視点
畠山卓朗 「操作スイッチから拡がるコミュニケーションの世界」より引用(http://www.normanet.ne.jp/~hatakeyama/nif/paper/als2006/commwrkshp.html)
について触れられています。
これを見ながら、障害の重い子どもたちの「選択」について3つのブログから考えたいと思います。
1.選択をすればいいということではない
2択について悶々と考えています(http://hatahataman.livedoor.blog/archives/13767004.html)
知り合いの特別支援学校の先生のブログです。とてもセンスの良い方で技術はありますが、それを子どもたちのためにどう使えばいいか、常に考えていることがブログの書きぶりからよく分かります。
この中で教材を2択から3択にステップアップしようとして上手くいかない事例を紹介しています。障害の重い子どもの学習教材ではよく選択活動をします。しかし、その選択には
1「好きなものを選ぶ」
というものと
2「正しいのものを選ぶ」
というのと
3「意思を表出するために選ぶ」
というのでは、全く性質が違うということ。
本当にそう思います。しかし、教員はそれらに気がつかず、選択すれば良いと思い込んでしまっていないか。2の課題は本人の意思は入りません。正解か不正解かだけです。
そして、本当に必要なのは3の「表出」でしょう。そして、それを確認するための問いかけであったり、環境設定などはとても難しい。
そこで、気になったのはこちらのブログ。
2 選択させたように見えて実は選択させられている
手を伸ばしたら「好き」でいいの?(ATAC2018)(http://blog.livedoor.jp/hamusproduction/archives/52822461.html)
いつもお世話になっている谷口さんが先日のATACで講義をした資料に添えられた絵だそうです。残念ながら、お話をお聞きすることは出来ませんでしたが、絵を見ただけで伝えたいことが分かります。
ブログでは
「手を伸ばしたり、見たりしたから好き」は、合っているのか?
また、このやりとりの繰り返しで選択は身につくのか
と書かれています。
前述のブログでは1の活動ですね。特に障がいの重い子どもで意思がはっきりしない場合、私たちは思い込みで本人の表出だと決めつけてしまう危険性がある。
この考え方については、武長さんらが書かれている「黙って観るコミュニケーション」を読まれることをお勧めします。

さて、これについてはいま流行ってきている視線入力でも同じ危険性がある事を考えなければならない。
重度障害のある子どもに視線入力をやる場合にも、目の前にモニターがあれば、必然として見てしまう。
前記のブログの2番目のように正解不正解を問うような課題ならいざ知らず、何が好きか、どう考えているかを問うような場面となれば同じことになる。
選んだようで、選ばされている危険性があります。
3 選択したことをしっかり本人に返すこと
おめめどうの奥平さんのブログより」「2013年12月17、18日の連載。これは面白い!」(https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12426668590.html)
奥平さんが対応するのは知的な障害はあっても身体的には動くことが出来る人が多い。当然、自分で身体を動かして選ぶことも出来る。しかしそんな人でもその選択活動を阻害してしまうことがある。
それはかかわる側が先読みをして問題を解決してしまうこと。
このブログではCDケースを車に忘れた(本当は置いていった)のを届けてしまい、パニックになるエピソードがあります。
つまり、本人が選択してやったことも気を利かせて大人が手伝ってしまうことがある。
しかし、奥平さんは
「実行した結果を見る=自己責任」
だけでなく、それを手伝うことは
「人権侵害」
にあたると書いています。
しっかりと本人に返すことをしていない。
前記の2つめのブログの絵でいうと、手を伸ばして牛乳を選んだら必ず飲ませなければならない。
よくあるのは
「Aちゃんは牛乳嫌いだよね?これは間違えて選んじゃったんだよね」といって選んだのは牛乳だったのにもかかわらず、ジュースを飲ませてしまう行為。
子どもは混乱するだけですし、選択をして学ぶことにならない。
障害の重い子どもの場合は、身体的な面や健康面などの配慮が必要なので、なかなか本人の活動を保証しずらい。でも、その視点が無ければいけない。
最後に
選択について書いてきましたが、ここで大切だと思うのは最初に書いた畠山さんの「共感者」の視点。杉浦さんも指摘していますが、1や2の活動は簡単にできますが、3の立場に立てるかどうかはなかなか難しい。
当人と同じ状態になることは難しいですからね。でも、できるだけ本人目線になって見ること抜きには十分な支援者にはなれない。
先日ある方が重度の行動障害のある人とスーパーに行ったときに、当事者の方が床に寝そべったので、気恥ずかしかったが一緒に床に寝そべったそうです。
そうすると、天井からの光の感じや床のひんやりした感触など、立っているときには気がつかないことを発見したそうです。まあ、だからといって皆さんが床に寝そべってもどうかと思いますが、本人がどう感じるか、それを考えていくことはとても大切なことだと思っています。
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