いつもお世話になっている高松さんから上記の絵をご提供してもらいました。
これの元になっているのはアメリカの経済学者が作られた絵です。
以前紹介した、中野さんの本も許諾をもらって掲載したそうです。
また、先日福島さんがこちらのブログでTEENSさんの許諾をもらって掲載していましたね。
掲載元の記事はこちら。
私のブログでも2014年にこちらに紹介していおり、ずいぶんと沢山の人に関心を持っていただきました。
これの掲載元はこちら
いろいろなバージョンがありますが、
同じ状態にしていればいいということでもなく、またそれぞれに同じもの(この場合木の箱など)を提供していれば公正とはいえないということ。
言葉だけでは伝わりにくい表現を,視覚的に見せることで理解してもらおうということを表しています。
高松さんの絵の場合は、過剰な支援は本人の力を弱めてしまう危険性があるのではないかということを示唆していると感じます。
まあ、野球観戦なんて、ずっと立って観ているのは疲れちゃいますから、本当なら3人とも座っていた方がいいのかもしれませんが、このシーンで伝えたいのはそういうことではなく、伸びようとする子どもたちがいたときに、その子なりの適切なが支援が行われず、
頑張れ
という一言で解決させようとすることの危険さと
かわいそうだから
ということでの過保護をどう考えるかということだと思います。
さて、それとは別に福島さんが紹介したTEENSさんの絵では壁がフェンスになっています。
これであれば、支援そのものが無くても同じ条件になってきますね。
これが
ユニバーサルデザイン
なのかもしれません。
もちろん、全ての場所が完全にユニバーサルデザインになることは難しいと感じます。
そうなってしまうと、逆に使い勝手が悪いものも出てくるでしょう。
そんなときにどうすればいいのか。
私は、そんなときこそ機器だけでなくそれを扱おうという人の考え方が変わってこないとダメなのだろうと思います。
福島さんも書かれていましたが、通常学級ではいまでも合理的配慮についての認識が少ない場合が多くあります。
何であの子だけ特別視するんだ
という言葉はまだまだ見受けられる。
先日ご紹介した「読み書き配慮」の事例の中でこんな言葉がありました。
先生次第でクラスの雰囲気は変わるんだそうです。先生が受け入れてくれてたときは、クラスのみんなからも「ずるい」とか「なんで潤樹くんだけ?」みたいな話は出ないんですって。だけど、先生が受け入れていないときは、お友達もみんなそういうふうになる、ということを小学校の頃に言ってました。
つまり、本当の意味で理解していなければ表面をさらってしまうことになる。
とても難しいことですが、大切なのは
違って当たり前
と思えることかなと思います。
その上で、できることはそれぞれ違うけど自分ができることはやっていこうという気持ちを持っていくことだと思います。
ぜひ、この高松さんの絵やTEENSさんの絵を多くの人にご紹介ください。