画一的な社会だからこそ特別支援教育は意味がある

ネットのニュースでこんな記事を見つけました。

どうなる、日本!?「普通年が逆だろう」1986年の入社式の写真と比較をしてみたら
考えさせられる画像の比較。

入社式での新入社員の服装が軍隊かと思われるほど皆同じ格好。

人と違うことを嫌う学生というよりも、採用する会社や社会側が画一的な人間を求めているのではないかと悲しくなります。

私も、大学生を教えている身ですから、彼らに人と違う格好で行けなんて言えません。

とても窮屈な感じです。

もう一つこんな記事もありました。

https://ten-navi.com/dybe/4580/

小学校での帰りの会。

糾弾場面です。

おもわず嘉門達夫の「怒濤の達人」の中の「映画の窓」に出てくる学級会を思い出しました。

これもある意味、窮屈な感じ。

今の世の中は監視社会で、人と違うことを指摘します。

しかし、障害のある子どもや支援の必要な子どもたちはすでに

違っている

最初から違っていると認められれば、アプローチや考え方も変えられる可能性がある。

特別支援教育や障害のある子どもたちというのは、社会全体から見るとマイナーであると見られていました。

でも、本当にそうなのかなぁ?

そういった子どもたちがいることの方が健全であり、違っているということを認めることが「定型発達」といわれる人たちの考え方も変えられる可能性がある。

本当はみんな違うはず。

なのに同じだとするステレオタイプの見方を変えていければと思います。

ノーベル賞候補のこの方は発達障害だからこそ選ばれたのだといっています。

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しかしその特別支援教育も、上手く使っていかないと問題がある。

朝日新聞のこの記事では

https://www.asahi.com/articles/ASM3W6QS7M3WUTIL05Y.html

終わりの方で中邑賢龍さんがこんな事を言っています。

一斉指導でも個別指導でも、標準的な人間像を作り上げ、そこに近づくことを目標にした今の日本の学校教育が根本から変わらない限り、本当のインクルーシブ教育にはなり得ないのではないでしょうか。

特別支援教育の中でも「標準」を求めすぎるのであれば、最初の服を統一しようというのと同じこと。

日本の学校教育というよりも日本の社会全体が多様性を認めていかないと学校も変わっていかないのではと感じました。

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