ひとは「できる」ということを基準に物事を判断します。
「料理ができる」「仕事ができる」「働くことができる」など。
学校でも、「勉強ができる」「運動ができる」「掃除ができる」など
もちろん、それが間違っているとは一概に言えません。
私なども「英語ができる」と海外に行ったときに楽しいだろうな、と英語の勉強をします。
しかし、そういった事がなかなか困難な「知的障害」のある人はどうすればいいのでしょうか?
そういった疑問に「知的障害×自閉症×支援力UPプロジェクト」というブログを運営している山田由美子(福祉屋あおい)さんがブログで「知的障害者は、生きている価値があるのですか?」というエントリーを書いてお答えしています。
山田さんによく寄せられる質問に
「僕は生きている価値があるのでしょうか?」
という質問を知的障害のある方からあるそうです。
それは
何をしても、うまくできないし、
僕は生きていていいのでしょうか?
ということだそうです。
それに対して山田さんは
世の中ね、
作る人
考える人も必要だけど、
できない人や、
消費するだけの人も必要なんだよね。
ということをていねいに説明され、
「そうだよね。あなたがいないと困る人がいるからね」
と書かれています。
これって、とってもステキな発想。
今の世の中はAIが普及し、効率主義になってきています。そうなると
「デキル人」と「デキナイ人」みたいな二極分化を求めるような人が多くなる。
でもそんな事でいいのだろうか。
別のブログでこんな記事を見つけました。
Amazonに対するリアル店舗の強みは『接客』しかない。人間は「感情」を求める生き物なのだから。
スーパーなどのリアル店舗でも最近は、無人レジなどが増えてきて、高齢者の方がそれについて嘆いた記事に対し、若い人に叩かれる状況に対して、筆者は効率化だけでは人間は動かないよ、と述べているものです。
私も人間は「感情の動物」だと思います。
表面に表れる言葉だけでなく、実は気持ちで動いている面が多い。
そういった感情を無視して効率化だけを追求しても楽しくない。
買い物さえ<できて>いればいいということでもないでしょう。
リアル店舗の不自由さというのもけっこう楽しいものかもしれません。
もう一つ、海外のサイトでこんな記事があります。
Disability Action Week: Emma the Master Shredder
登場するのはシュレッターを専門とするEmmaという女性。
彼女はこれを仕事とし、給料をもらいます。
どうしてか?
それは、彼女が字が読めないからです。
私たちは教育によって字が読めることをその能力として求めます。
もちろん、彼女もそうした教育を受けていたでしょう。
しかし、知的障害があるために、文字を読むことが十分でない。
それは一般的には就労ということには結びつかない。
しかし彼女の別の能力は
字が読めない
という能力としてこの仕事があります。
字が読めなければ機密文書だったり、大切な書類だったりしてもそれには興味を示すことなく他のものと
同じ紙
として、シュレッターをかける。
私たちは、読めることはできても、読めないようにすることはできません。
つまり、できることだけを求めても難しい仕事がある。
もちろん、この例は希なケースでしょう。
そんなに容易に仕事が有るはずは無いと。
でも本エントリーになった山田さんが書かれているように、デキナイ人がいるからこそデキル人が助かるということは他のこともでも考えられる。
そして一番大切なのは
コミュニケーション
かなと思っています。
私が関わる重度重複障害といわれるような身体的にも知的にも障害の重い人たちは、できることは少ないと言われています。しかし、彼らがどう感じているかということを多くの人に表出できる環境を作っていければ、見方は変わってくると思っています。
最後にまたこの支えの信条のエントリーを紹介してこのお話は終わりにします。
