学生教育研究会 夏期学校 お別れの会

それはまるで偶然のように連絡がありました。
金曜日にふとした思いつきで大学時代のサークル仲間と30年ぶりの同窓会をしたいと思いつき,手帳に「教研 同期会 予定を立てる」と書き留めました。
「教研」というのはもちろん教職員組合の「教研集会」ではありません。
私が入っていた「学生教育研究会」の略称でした。このサークルは今は無き東京都立大学のサークルで地元の小学5年生から高校1年生,当時の青鳥養護学校の子どもたちを夏によんで「夏期学校」というのを2週間ほどやるサークルでした。
まあ,教員の卵のための自分たちで学校をやろうという変わったサークルでした。ですが,実は教員になりたい学生だけでなく工学部や経済学部の学生も入っていて必ずしも教員志望の学生のサークルではありませんした。
そういった学生仲間での「教研」は大学に入ってパラダイムが変わった私には様々な事を教えてもらったところです。
高校までの自分は他人との距離感をとるのが苦手で,人とのコミュニケーションが嫌いでした。(今の私を知っている人には想像できないかもしれませんが。)
そして,その結論として考えたのは人との関係を作らなくてもいい(と思っていた)数学の勉強をきわめて大学の数学の先生になろうと思っていました。
しかし,大学に入っていきなり誘われたこのサークルでは人との関係の楽しさを沢山教えてもらいました。
サークルでの学年会とよばれる小集団(1年目は高一学年会に所属しました。)による様々な会議では自分の受けてきた教育はどのような物だったのかを振り返り,夏期学校での目標を作るための「めざす子ども像」というのを作りました。
この通称「受け振り」をすると,本当に自分という存在はなんだったんだろうか,教育ってなんなのだろうかという事を考える事になりますし,それを通じて仲間を強く意識できました。
サークルでの活動が楽しくなればなるほど大学での勉強はつまらなくなってきました。単位も落としまくり,留年。
退学して,別の大学に行く事も考えましたが,最終的には何とか卒業できました。
人が嫌いだった私はこんなサークルに入っていてもけして人との付き合いのある教員にはならないと思っていたのが,こんな不完全な自分も自分として認めた上で教員になってもいいのではないかと思うようになり,教員になる事にしました。
それでも1つだけ拘っていたのは「養護学校」の教員だけはなれないと思ったのです。
実は,大学に入学してすぐにサークルの先輩の紹介で青鳥養護の生徒を今は無き梅ヶ丘病院から通学させるガイドヘルパーのようなアルバイトをしていました。
そのお金がどこから出ているのかはよく分かりませんでしたが,保護者の方からいただくお金は当時としてはけっこうな高額でたいへん助かりました。
彼は,自閉症と知的障害のある高等部1年生でしたが,就学猶予で入学が遅れていたそうで年齢的には大学1年の私とは1歳しか違いがありませんでした。
自閉症の特性で病院から学校までは世田谷線という路面電車に乗って通学してくれたのですが,社内の特定の場所に立とうとして,途中の国士舘大学の学生に睨まれたり,下校の時には絶対に電車に乗ってもらえないので,歩いて帰るのですが,車好きなので環七通りに出るとなかなか動かなかったりと自閉症の事をよく分かっていなかった私には戸惑う事ばかりでした。
そんな経験もあり,逆に障害のある子どもの教育は自分ではできないと思い込んでいました。
そんな私が特別支援教育の専門家になるなんて自分としては思いもしません。
さて,話が大きくそれたのですがその「教研」ですが,その同期の仲間から昨日の昼間に留守電がありました。
まるでセレンデピティ,なにかあるのかと電話をすると訃報の知らせ。
大学1年の高1学年会で一緒だったMの奥さんで1年後輩のボッコが無くなったとの連絡でした。
ガンだったようで,昨年の夏にはまだ病気も分かってなかったぐらいの急な話だったようです。
昨夜はとりあえず,千葉の葬儀場まで行き,連絡が取れた数人の大学の仲間に会う事ができました。
まさかこんな形での同期会を望んでいたわけではないのですが,やはり親の世代の葬儀ではなく自分たちの世代になってきたのを思い知らされました。
式場を出る時には当時の他のメンバーにも声をかけて同期会をしようと話しました。
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今の自分を作ったのは当時の大学のサークルだと言っても過言ではありません。人とつきあう事の楽しさ,コミュニケーションの楽しさをしっかりと教えられた時代でした。そのために大学へはずいぶんと長く通う事になったのですが,とても良い経験をしました。
大学も引っ越し,名前も変わったので,今は同じような活動ではないのでしょうね。

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