今さらだけど教育の目的は選択と決定だと思う


ブログのザッピングをしていたらこんな記事を見つけました。

「相手が子どもだからといって「人を動かす」って発想は自分本位すぎませんか?」
プラス・ハンディキャップの記事で放課後デイサービスに働く方の職場で感じる疑問です。
こういった疑問は私たち、特別支援教育に関わるものはよく感じるのではないでしょうか?
特に、肢体不自由のある子どもたちに関わっていると、圧倒的に教員の方が動けますので、子どもを無理に動かしてしまうかもしれません。
その点、知的障害のある子どもたちはパニックや問題行動(と思われている事)での拒否ができるので、まだいいかもしれない。
となると、関わる大人は疑問を持たずに、子どもたちを動かしてしまう。


では、どうすればいいのだろうか?


学校という場は、教育をする場です。

しかし、いろいろな知識を教えるという事はすでに限界に達してきている。
これだけネット社会が普及すれば、単なる知識を教えるだけならインターネットで調べれば答えが出てくる事も多い。

ホリエモンなどはこんな本も出しているみたいです。

しかし、では学校はいらない存在なのだろうか。

なかなか得られない知識を得る場所とはならなくなったかもしれないが、そういった知識を使えるようにする場所にならなければいけないのではと思う。

ネットでももちろん、情報は入ってくるのですが、それらが本当に正しいのだろうか?

それを判断できる力が必要だと思います。

もちろん、そのためには基礎となる知識はいるとのですが、何でもすべて覚えていなければならないとは限らない。

学校の役割は、だからこそ「選択」と「決定」する力をつけさせる事が大切に思います。

あまりにも当たり前な答えなのですが、それを意識するか意識しないかが結構大きい。

中邑賢龍さんが昔の講演で、話をされていたなかで、車椅子の生徒がプールに入るという活動の中でも沢山の「選択」がそこにあり、そのタイミングで教員がどれだけ子どもに働きかけているかが重要だといっていました。
「プールに行く?」
「どこを通ってプールに行く?」
「車椅子から降りる?」
「プールに入る?」
「プールから出る?」
そんなことしたら、プールに入るまでに時間が無くなっちゃうと思うかもしれませんが、そういった一つ一つの人間の動きには、選択して決定するという事が含まれているのです。
そして、それらを意識しているか、意識せずに生きていくかはその積み重ねで大きく変わってくる。
知的障害があると思われていた子どもたちでも、選択し決定するという事の繰り返しを経験する事で沢山の力が付いていくように思います。
だからこそどうやって聞くか、どんな風に判断させるか、分かるように伝えているかが大切であり、コミュニケーション支援が重要であると思います。
支援機器やICTをそのように使ってもらえるといいのにと思いました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加