Facebookでこちらの記事を教えてもらいました。

工藤さんといえばこちらの本で有名になった方です。
学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ―
公立中学校の校長というとどうしてもルールに縛られてしまいがちですが、それを「当たり前」をやめたという言葉のように、なんでこれをやっているのか?という疑問を呈しながら実践されている方です。
さて、このエッセイでは「みんななかよく」という言葉に悩む自分のお子さんに
五味太郎さんの『じょうぶな頭とかしこい体になるために』(ブロンズ新社)という本を使いながら、「お父さんにも嫌いな人がいるよ。お母さんにだって、嫌いな人がいるんだよ」
と伝えたと書かれています。
つまり
誰もが聖人君子ではないということは大人になると気がついてくるものですが、小さい子どもたちはそれが上手く理解できない。
その話の流れの中でどんな人でも嫌いになってはいけないということではないという話になります。
工藤さんはこそもで
ちなみに、息子が悩んでいたとき、こんなことを付け加えました。「お父さんにも嫌いな人がいるけれど、だからといってその人に意地悪はしないよ。きちんと挨拶もするし、本人に嫌いだと言ったりはしないよ」
といって、心と行動を切り分けることを伝えています。
さて、その「心」と「行動」を切り分けるというのは私たちは理解できているのでしょうか?
どうしても、他人の行動とその人の考えはつなげて考えがちです。
実際、そんな行動をするんだからこう考えているのだろうと思う方がある意味普通かもしれません。
工藤さんは
心と行動は切り分けて、「よい行動」をする
と話しています。
とても大切な視点です。
振り返ってみて、自分はどうだったろうかと思うと、なかなかその視点を持てない人だったように思います。
ですので、常に
正しくあれ
と考える人でした。
そして、他人の行動や言動にずいぶん傷ついてきたように思います。
想像力が弱い人だったのかもしれません。
今も、そんなところがあります。
さて、この文章を読みながら考えるのは自閉症の人。
自閉症の特長は
「1. 対人関係の障害」「2. コミュニケーションの障害」「3. パターン化した興味や活動」
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-005.html(厚生労働省)
とされています。
また、サリーアン課題でも有名な心の理論で示されるように、現象と違ったことを想像することに苦手さがあるといわれています。
ですので、工藤さんがこういった事を示しても工藤さんのお子さんのようにすぐに理解を示してくれるとか限りません。(実際サリーアン課題が通過できるのは4〜5歳と言われています)
ですが、だからといってそれを教えなくていいということではないでしょう。
理解することには困難があるとしても、そういうことがあるのだということを知っているか、知らないでいるかは大きな違いだと思います。
その上で、より具体的に説明していくことはとても重要でしょうね。
さて、このエッセイでの最後のところでは多様性を認めることとして
「いじめを絶対に許さない」
という言葉の危険性が書かれています。
これを読んで思ったのは、熊谷晋一郎さんの講演でお話しされた、薬物禁止の標語である「ダメ。ゼッタイ。」の言葉にある危なさ。
もちろん、使うこと自体はいけないでしょう。
しかし、そういった言葉が回復に向かう人を排除することにならないか。
そんなお話であったように思います。
排除の論理はどこにもうまれます。
もちろん、気持ちがあわない人もいるでしょう、だとしても
あの人の考えは間違えている。
あんな人と一緒にいてはいけない。
仲間とはいえない。
そんな言葉だけで、簡単に人を排除しない社会になって欲しいなと思います。